プロローグ

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○人絹織物、福井人絹取引所、福井人絹会館、福井人絹倶楽部

1. 人絹とは

人造絹糸を略したものでレーヨンともいう。天然の絹糸をまねて作った化学繊維で、綿花・木材パルプなどの繊維素を原料に化学的操作によって製造する連続糸である。

2. 羽二重から人絹

第一次世界大戦が終わり、1920年恐慌を契機として、絹織物輸出の凋落が始まりました。これに代わり登場したのが人造絹糸(人絹)織物です。日本の人絹糸メーカーが勃興するのは大戦期になってからですが、その後20年たらずで日本は世界最大の人絹工業国になったわけである。当初、人絹はフィラメント(長繊維)糸を主体に製造されたため、製織はおもに従来の輸出羽二重産地で行なわれた。福井県では、綿糸を経糸に用いる交織織物の製織をへて、昭和初年には緯糸・経糸ともに人絹を用いる双人絹織物の生産が本格化し昭和3年末には県内の人絹糸の消費量が生糸のそれを凌ぐこととなった。

羽二重が欧米の先進国向け輸出に対し、人絹織物は英領インド、蘭領インドなどのアジアをはじめ、オセアニア、アフリカといった、主に後進国市場に輸出されていた。

福井産地では人絹織物の筆頭産地として急成長をとげ、県内の絹人絹織物の製造工場数は昭和元年から昭和11年には3.3倍にも増加するなど、人絹織物業が大きく繁栄する結果となった。

3. 人絹糸相場と取引所の設立

人絹織物業の隆盛は人絹糸取引の活発化を招き、福井市場は全国の人絹糸の標準相場を形成する市場として活況を呈するようになった。しかし、「オッパ取引・・・取引所の代わりにプローカーが間に入って取引を成立させる商人間の取引で、証拠金を払わずに随時大量の売買を行う取引が行われていた」と呼ばれた投機的な取引が行われるようになり、産元商社に加え県外から多数の商社が福井市場に進出し「オッパ取引」が拡大することとなった。

しかし、昭和恐慌が進展する中で、しだいに思惑外れによる紛糾や相場の乱高下による機業への影響が問題視されるようになり、人絹の正常な取引方法として、取引所内で銘柄別に清算取引をする人絹取引所の設置が望まれるようになった。福井人絹取引所は、大阪・東京と3者競願のなかで地元政界・実業界をあげての激しい陳情運動の結果、ようやく昭和7年4月に正式認可を得て5月に設立された。この設立で特に尽力をつくしたのが西野藤助氏で、同氏は初代の理事長に就任した。

4. 福井人絹取引所について

福井人絹取引所は、昭和7年5月に設立され、昭和17年1月に解散、戦後の福井人絹取引所は、昭和26年2月に再設立され昭和50年12月に解散した。これら双つの取引所は戦争による9年間の中断期間を除いて実質34年に亘って、福井県の繊維産業のみならず、全国の人絹織物業にとり、極めて重要な施設となり、我が国人絹糸布業の発展に重要な役割を果たした。

5. 福井人絹会館の設立

当時、福井人絹取引所理事長であった西野藤助氏は、取引所創設後の第二の事業として、人絹業界の将来における飛躍的な発展に備えるため、福井を象徴し得るような社交機関の設置が必要とし、同氏の私財と人絹糸メーカーの寄付金により昭和12年5月に福井人絹会館が設立された。その後、福井人絹取引所はその新しい福井人絹会館内に移転することになった。

6. 福井人絹倶楽部の発足

福井人絹会館の設立に伴い、福井人絹会館の運営、及び設立の趣旨から人絹工業に関する諸問題や調査研究、人絹業関係者の講演会、人絹業に関する紹介宣伝を図るため福井人絹倶楽部が設立された。

7. 福井人絹取引所の解散と老朽化による福井人絹会館の売却

福井人絹取引所は昭和50年8月解散し、福井人絹会館も老朽化等により昭和58年に売却された。

8. 新福井人絹倶楽部の発足

福井人絹会館の売却により会館運営は終了し、売却資金により前倶楽部を引き継ぎ、新たな業務を行うことで新しい福井人絹倶楽部が発足した。定款の目的には、「福井人絹会館の設立の趣旨を尊重し、繊維産業の振興に関する諸事業を行うことにより本県繊維産業の総合的発展に寄与することを目的とする」と記載されている。